今回は、プログラミング言語Logoに関するエピソードとして、Logoに大きく貢献したシンシア・ソロモン(Cynthia Solomon)を紹介する。筆者はコンピューティングと教育に関する学会活動、そして第7回で触れた『創造する心』への協力と翻訳を通じて、個人的にも親交がある。
■生い立ちとコンピューターに触れるまで
ソロモンは1938年の生まれで、1959年にラドクリフ大学(女子大学だったが、現在ではハーバード大学の一部となっている)で学士号を取得した。専攻は歴史学で、卒業後数年はコンピューターに関わりのない仕事をしていたものの、1962年に友人と喋っているときに、「コンピューターに関わる仕事がしたい」と漏らしたところ、その友人は「知り合いにコンピューターやっている人がいるよ」と言った。その友人の知り合いというのがマサチューセッツ工科大学(MIT)にいたマービン・ミンスキーであり、ソロモンはミンスキーの秘書として働くこととなった。大学卒業後当時の秘書として必須技能であったタイプライターをそこで学んだそうだが、タイピングの速度はミンスキーの方がはるかに速かったので、本当に急ぎでタイプしないといけない書類があったときは、ミンスキーが秘書室に来て、自分でタイプしたそうである。
ソロモンは、秘書として仕事をするにとどまらず、MITのハッカー文化に囲まれながらLISPプログラミングを学んだ。LISPは記号処理を得意とする言語であり、ミンスキーのグループが行っていた人工知能研究の主軸言語であった。このころにはシーモア・パパートもMITに移籍しており、ソロモンも仕事だけではなく友人としても交流があった。
■BBNでの教育プロジェクト
そこで培ったプログラミングの能力を活かし、MITREという会社(こちらもBBN同様MITと深く関係していた)を経て、BBNのウォリー・フォイヤーザイグのグループに勤務することとなった。その経緯も、ミンスキーの生徒であったダニー・ボブロウがBBNでAIグループのリーダーをしていたということで、ソロモンの話を聞くとある意味MIT近辺には緊密な人的ネットワークがあったものだなと思わされる。BBNのフォイヤーザイグのグループでは教育へのコンピューターの応用についていくつかのプロジェクトを進めていたが(このような部門が成り立っていたのも、スプートニク・ショックによって教育改革に大量の資金が投下されていたからである)、前回述べたようにパパートも関与するようになった。1966年の夏にパパートがLogoの提案書をチームに見せた後、最初期バージョンはボブロウがLISPでその夜のうちに作ったが、それをソロモンが引き継いで少し改良した後、ディック・グラントという若いプログラマーが使えるところまで仕上げたのが、一番最初に生徒が使った版であると聞いている。
ソロモンは1969年にMIT AIラボへ移り、以後もLogoと教育実践の両方に深く関わっていくことになる。
■Logo「で」思考法を教えるということ
フォイヤーザイグがすでに行っていた実地の学校における実験の続きとしてLogoが導入された。ソロモン、そしてパパートは、構築主義的な見地から、「コンピューターを使った教育とは、子供達が実際にものを作り、その過程によって自ら知識を構築していく」というカリキュラムを進めようとしていた。まずは学校の先生に実地の活動を担当してもらったのだが、その先生はプログラミングについての知識はなかったので、「Logoを教える」ということを外国語教育のように、つまりLogoの構文規則や予約語を教え、このようなコマンドを書くとこのようなことが起こります、と「座学」として教え出してしまった。これは現代でのプログラミング教育でもしばしば見られることで、なんらかのトピックを子供に教えるときに、「その本質的に面白いところ」を教えるのは、プログラミングにとどまらず、今でも難しいことだと思う。
これを見て、ソロモンとパパートは自ら教えるしかない、と結論づけ、ほぼ毎日中学校に通ってLogoを教えたわけである。このときすでにコンピューターでゲームができる、ということは子供たちもわかっていた。ソロモンが子供たちに課したルールは、「ゲームで遊んでも良いが、それは自分たちで作ったゲームに限る」ということであった。こちらは現代でもプログラミング教育の一環として試みられるルールだが、今では他の人が作ったものを入手するのがより簡単であり、またテキスト処理しかできなかったこの時点でのLogoとは異なり、現代ではグラフィックスを使ったアクションゲームが普通となってしまったので、「自分たちで作ったゲームだけ」というのは、アクセスのしやすさからも、また一度始めてしまうと止まらなくなる、という性質からも「ゲームを作りながら学んでいく」というアプローチは難しくなっているようには思われる。

AIが出てきてプログラミングを利用した教育も形を変えつつあるが、将来プログラムを書くようにならないとしても、目的を達成するために分析的に考えることは必要であり、そのための考える道具としてプログラミング言語は必須だろう。Logoからはじまった「考える道具としてのプログラミング言語」という発想はこれからも重要であると思う。
次回掲載予定は2026年5月上旬頃
著者:大島芳樹
東京工業大学情報科学科卒、同大学数理・計算科学専攻博士。Walt Disney Imagineering R&D、Twin Sun社、Viewpoints Research Instituteなどを経て、現在はCroquet Corporationで活躍中。アラン・ケイ博士と20年以上に渡ってともに研究・開発を行い、教育システムをはじめとして対話的なアプリケーションを生み出してきた。2021年9月に株式会社京都テキストラボのアドバイザーに就任。2022年8月より静岡大学客員教授。
